導入——見付の夏に、神輿が渡る
いま、見付のまちに祭りの音が響いている。見付祇園祭である。2026年は7月10日から12日までの日程で、10日の宵祭で天御子神社を出発した神輿が、約1.7キロ先の淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)まで渡御し、11日には両神社の例祭とともに、地域の屋台の引き回しや手持ち花火大会でにぎわう。そして12日、淡海國玉神社での終祭のあと、神輿はふたたび天御子神社へと還っていく。夏の見付の、季節を告げる祭りである。
この「祇園祭」という名前。京都・八坂神社の祇園祭が全国的に有名だが、そのおおもとをたどると、これは疫病退散を願う祭りである。ここで、ふと立ち止まって考えたくなる問いがある。「祇園祭が疫病を鎮めるための祭りだというのなら、疫病がまさに猛威をふるったコロナ禍のときこそ、祭りをやるべきだったのではないか」——今回は、この少し挑発的な問いを入り口に、祭りと「祈り」について、一市民として考えてみたい。
祇園祭のいわれ——疫病の時代に生まれた祭り
まず、祇園祭がなぜ「疫病の祭り」なのかを整理しておきたい。その起源は、平安時代の貞観11年(869年)にさかのぼると伝えられている。当時は、災いが続いた時代だった。その5年前の864年には富士山が大きく噴火し、869年には東北で貞観地震と大津波が起きている。そして都では、疫病が流行していた。目に見えないその災いを、平安の人々は、恨みを抱いて亡くなった者の霊、いわゆる御霊(ごりょう)や、疫病をもたらす神のしわざと受けとめた。
そこで営まれたのが「御霊会(ごりょうえ)」である。疫病にご利益があるとされた牛頭天王(ごずてんのう)——日本神話の荒ぶる神スサノオと同じ神と考えられた神——を祀り、当時の国の数にあわせて66本の矛(ほこ)を立て、京都の神泉苑に神輿を送って、無病息災を祈った。これが祇園祭のはじまりだと伝えられている。牛頭天王を祀った社は祇園社と呼ばれ、明治の神仏分離を経て、いまの八坂神社となった。全国に広がる祇園祭や天王祭は、この「祇園信仰」の流れのなかにある。見付祇園祭も、その大きな流れをくむ、夏の祭りである。
つまり祇園祭は、もともと娯楽のための祭りではなく、「疫病という災いを、神に祈って遠ざけたい」という、切実な願いから生まれた。この由来を踏まえれば、冒頭の問い——疫病の祭りなら、疫病のときこそ——は、たしかに一理あるように聞こえる。
「コロナ禍こそ」という問いに、向き合ってみる
では、なぜコロナ禍では、全国の祭りが中止や縮小を余儀なくされたのか。ここに、昔と今の「疫病退散」の考え方の、大きな違いがある。
平安の人々にとって、疫病の原因は、目に見えない霊や神のしわざだった。だからこそ、皆で集まり、神を祀り、心を一つにして祈ることが、災いを遠ざける手立てだと信じられた。人が集うことそのものが、退散の方法だったのである。
しかし現代の私たちは、疫病の正体がウイルスであり、人と人との接触によって広がることを知っている。だからこそ、コロナ禍では「密を避ける」「集まらない」ことが、感染を抑えるいちばん確実な方法になった。皮肉なことに、祇園祭が「集まって祈る」ことで疫病を遠ざけようとしたのに対し、現代の疫病退散は「集まらないこと」だった。祭りを見送るという判断は、いわば、現代の知恵による、もう一つの疫病退散だったとも言える。そこには、たしかな合理性があった。
だから私は、「コロナ禍こそ祭りを強行すべきだった」と単純に言うつもりはない。集団感染の危険を冒してまで神輿を担ぐことが、病で亡くなった人や、必死に医療を支えた人たちに対して誠実だったとは、思えないからだ。あのとき祭りを見送った各地の判断を、私は責めない。
ただ、この問いが照らし出すものは、決して小さくない。それは、「祭りとは何か」という問いである。
結論——祈りは、形を変えて続く
祭りは、屋台や花火といったにぎわいである前に、地域の人々が心を一つにして、災いや不安に向き合うための「祈りの場」だった。コロナ禍で失われたのは、屋台の売り上げや花火の光だけではない。人々が顔を合わせ、不安を分かち合い、「それでも前を向こう」と確かめ合う、その場そのものだった。祭りを「不要不急」と呼ぶとき、私たちはつい、この一番大切な部分を見落としてしまう。
実際、コロナ禍のあいだも、多くの地域が祈りを絶やさなかった。神輿の巡行は取りやめても、神事だけは神職の手で静かに営む。規模を大きく縮めても、火を絶やさない。集まれないなりに、疫病退散の願いを、形を変えて受け継いだ地域は少なくない。それは、平安の御霊会から千年以上つながってきた「祈り」の、現代なりのかたちだったのだと思う。冒頭の問いへの私なりの答えは、ここにある。あの疫病の時代と祭りをつないでいたのは、「集まる」という形ではなく、「祈る」という心のほうだった、ということだ。
そして今年、見付のまちに、また神輿が渡り、屋台が引かれ、花火が上がっている。この当たり前のにぎわいが戻ってきたこと自体が、疫病を越えてきた地域の姿である。疫病の時代に生まれ、疫病を越えて受け継がれてきたこの祭りの重みを思うと、それは、地域が地域であり続けるための、大切な祈りの営みなのだと感じる。次にまた大きな災いが訪れたとき、私たちがこの祈りをどう絶やさずにいられるか——見付祇園祭のにぎわいは、そんなことまで静かに問いかけているように思う。
最後に一言。祭りの音を聞きながら、私は、失われた数年ぶんの夏祭りと、それでも祈りを絶やさなかった各地の人々のことを思う。今年また、こうして祭りができること。その当たり前のありがたさを、かみしめておきたい。
出典(2026年7月確認)
- 静岡新聞アットエス「見付祇園祭」イベント情報(2026年)
- 磐田市観光協会 祭事情報、見付天神(矢奈比賣神社)・淡海國玉神社に関する案内
- 八坂神社(京都)公式サイト、および祇園祭・祇園信仰・牛頭天王に関する各種歴史資料(貞観11年〈869年〉の御霊会、神仏分離による改称など)
※祭りの日程・内容は変更される場合があります。最新情報は主催・磐田市観光協会等の公式案内でご確認ください。歴史的経緯には諸説あります。