導入——ひとつの告白から

今日は、市政の話でも制度の話でもありません。ひとつの告白から始めます。

磐田で育った私は、長いあいだ、磐田南高校に行くことだけが正解だと思っていました。それ以外の選択肢は、頭の中にありませんでした。磐田で勉強ができる子は磐南へ行く。磐南に行けなければ、それは「届かなかった」ということ。そういう一本の物差しが、自分の中にあったのです。おそらく、同じ物差しを持って育った磐田の大人は、私だけではないと思います。

その物差しが揺らいだのは、自分の子どもと、縁あって塾で勉強を見てきた生徒たちの、その後を見てきたからです。磐南ではない学校へ進み、そこで伸び伸びと力をつけて、自分の道で立派にやっている子を、私はたくさん見てきました。「磐南だけが正解」という私の思い込みは、現実のほうから崩されていったのです。

磐田南という学校——まず、敬意から

誤解のないように、先に書いておきます。磐田南高校は、素晴らしい学校です。1922年(大正11年)に県立見付中学校として開校した、100年を超える伝統校。普通科と理数科を持ち、県下でも指折りの進学校で、2003年度からはスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の指定も受けています。校訓は「質実剛健・真剣至誠・文武両道」。勉強も部活も行事も本気でやる。磐田の誇りであることに、何の異論もありません。

だからこそ、成績のよい優秀な生徒が集まります。そして、ここからが今日の本題です。優秀な生徒だけを集めても——いや、優秀な生徒だけを集めるからこそ——その中には必ず、上下ができるのです。

中学では学年の一番手だった子が、磐南に入れば「真ん中」になる。真ん中どころか、下位になることもある。全員が優秀なのだから、当たり前のことです。誰が悪いのでもない。ただ、15歳の子どもにとって、この「当たり前」は、想像よりずっと重い。中学まで「できる子」として生きてきた子が、初めて「下から数えたほうが早い自分」に出会う。その戸惑いを、私は塾の教え子たちから、何度も聞いてきました。

同じ学力の生徒でも、進学先によって集団の中での位置が変わることを示した図。中学で上位だった生徒が、優秀な生徒の集まる進学校へ行くと集団の中では中位や下位になり、別の学校へ行けば上位のまま学年を引っ張る立場になる。学力そのものは同じでも、置かれた集団によって「自分はできる」という感覚が変わる。
図1 同じ学力でも、池が変われば「位置」が変わる

「小さな池の大きな魚」——教育心理学が言っていること

私のこの実感には、実は名前がついています。教育心理学で「小さな池の大きな魚」効果(ビッグフィッシュ・リトルポンド効果)と呼ばれるもので、1984年にハーバート・マーシュらが提唱しました。

内容は、こういうことです。人は「自分は勉強ができる」という感覚(学業的自己概念)を、偏差値のような絶対的な数字ではなく、まわりの集団との比較でつくる。だから、同じ学力の生徒でも、優秀な集団に入った子は「自分はできない」と感じやすく、そうでない集団で上位にいる子は「自分はできる」と感じやすい。そして、この「自分はできる」という感覚が、その後の学習意欲や挑戦に影響していく——。

もちろん、進学校には進学校の良さがあります。切磋琢磨できる仲間、高い目標、整った環境。それで伸びる子は、間違いなくいます。この効果がすべての子に当てはまるわけでもありません。ただ、「いちばん上の学校に入ること」と「その子がいちばん伸びること」は、必ずしも同じではない——このことを、心理学は何十年も前から指摘していたわけです。私は塾と子育ての現場で、それを後から追認したにすぎません。

あの子が、もし磐南ではない学校に行っていたら、どうなっていただろうか。学年の先頭に立って、生徒会や部活を引っ張って、「自分はやれる」という顔で卒業していったのではないか。逆に、別の学校で先頭に立っていたあの子が磐南に行っていたら、真ん中に埋もれて、あの自信は育たなかったかもしれない。どちらの人生が「成功」なのか。私には、答えが出せません。答えが出せないということ自体が、「磐南だけが正解」ではない、ということなのだと思います。

小さな池の大きな魚効果の説明図。1984年にハーバート・マーシュらが提唱した。人は自分は勉強ができるという感覚を、まわりの集団との比較でつくる。同じ学力でも、優秀な集団では自分はできないと感じやすく、そうでない集団で上位にいれば自分はできると感じやすい。この感覚がその後の学習意欲や挑戦に影響する。進学校で伸びる子もいるため、大事なのは学校の名前ではなく、その子に合った池を選ぶこと。
図2 「小さな池の大きな魚」効果——自信は、比較の中で育つ

結論——行ける場所で、最善を尽くせばいい

私の結論は、シンプルです。行ける場所で、最善を尽くせばいい。

磐南に行ける子は、磐南で最善を尽くせばいい。あの環境で揉まれることが力になる子は、確かにいます。でも、別の学校に進んだ子は、その学校で先頭を走ればいい。学年の一番手として推薦をつかむ道もある。部活に打ち込む道も、資格を取って手に職をつける道も、専門学校から現場のプロになる道もある。私が見てきた「成功した教え子たち」は、見事にバラバラの道を歩いていました。共通していたのは学校名ではなく、「いた場所で、腐らずにやり切った」ことだけです。

大人の側の物差しこそが、問題なのだと思います。「磐南に行けなかった」という言い方を、私たちはつい、してしまう。でもそれは、一本の物差しでしか子どもを測っていない大人の側の貧しさであって、子どもの現実は、もっと豊かです。15歳の春の合否は、人生の合否ではありません。

そして、これは学校選びだけの話ではないとも思っています。この連載で書いてきた学校再編の問題も、部活動の地域移行も、根っこには「どの学校に行くかで人生が決まる」という古い前提があります。その前提が緩めば、議論はもう少し風通しがよくなるはずです。

最後に一言。不動産の仕事をしていると、「あの学区に住みたい」という相談を受けます。その気持ちは分かります。私もかつて、同じ物差しの中にいましたから。でも、いまの私はこう付け加えるようにしています。「学区より、その子に合う池を探しませんか」と。夏休みは、三者面談と進路の季節です。もしお子さんの偏差値と睨めっこして苦しくなっている親御さんがいたら、この記事が、物差しを一本増やすきっかけになれば嬉しいです。行ける場所で、最善を尽くす。それで人生は、ちゃんと拓けます。私が見てきた子どもたちが、その証人です。

出典(2026年7月確認)

  • 静岡県公式ホームページ「静岡県立磐田南高等学校 全日制」(1922年県立見付中学校として開校、普通科・理数科、2003年度からSSH指定などの学校概要) https://www.pref.shizuoka.jp/kodomokyoiku/school/kyoiku/1003777/1003792/1003784/1003816/1003827/1031656.html
  • Marsh, H. W., & Parker, J. W. (1984) による「小さな池の大きな魚」効果(Big-fish–little-pond effect)の研究(学業的自己概念は所属集団との比較で形成されるとする教育心理学の知見) https://ja.wikipedia.org/wiki/小さな池の大きな魚効果

※本文中の教え子・子どもに関する記述は、個人が特定されないよう内容を一般化しています。教育心理学の知見には個人差があり、すべての生徒に同じように当てはまるものではありません。